戦国時代、味噌は重要なたんぱく源として兵糧に重宝されました。戦闘能力にもかかわることから、各地の戦国武将も味噌作りを大きな経済政策の一つと見るようになりました。
現在、味噌の生産量の多い長野県、愛知県、宮城県、新潟県などは、武田、織田、豊臣、徳川をはじめ、上杉、伊達など有力な武将の本拠地であったことが知られています。
室町時代中期に築城された箕輪城。城主・長野業政は、攻め入る武田軍を何度も退けたとしてその武勇が知られる武将でした。その業政が死去した後、二十歳にも満たない業盛が跡を継ぎますが、永禄九年(1566)に武田の猛攻に屈して自刃し、落城します。
この長野業政〜業盛の下で、城の穀物番として年貢を管理していたのが、元紺屋町で商売を興した糀屋の初代です。“飯嶋喜太夫という人が永禄6年(1563)に和田宿(現高崎市)に居を構え、初代糀屋を名乗った”という記録が残っています。元紺屋町の自宅で商売を営み、何かあれば箕輪城に参じていました。
江戸に入府した徳川家康は、信州、越後と関東の勢力がぶつかる最前線の西上州を国防の要衝ととらえ、徳川四天王のひとり、徳川最強軍団といわれた井伊直政を軍事拠点の箕輪城に配置しました。その後直政は、信州、越後へと街道が通じる要衝・和田に城を移し、慶長3年(1598)に高崎が誕生しました。
創業450年に及ぶ歴史ある糀屋は、高崎城下に最初につくられた中山道の通り沿いにあります。周辺は道路も拡張されず、蔵のたたずまいなども加わり往時の雰囲気を伝えています。
「創業当初、糀屋では味噌づくりに必要な種糀を旅籠や農家に売っていました」と話すのは、糀屋の22代目当主・飯嶋藤平さん。初代は「喜太夫」、その後が「藤兵衛」、8代前から「藤平」を名乗ってきたといいます。当主が亡くなると、次の当主は戸籍の名を「藤平」に変えて跡を継ぎました。
現当主の祖母は、飯嶋家の直系だったにもかかわらず、東京の親戚に預けられ、婿となる祖父が早くから養子として飯嶋家に入るなど、飯嶋家では男子が跡を取ることを重視し、家業の存続を第一としてきました。
また、経営上の危機を分散するため、一方で多角経営にも取り組みました。明治12年の群馬郡高崎驛元紺屋町の戸籍帳には、“糀渡世”の他に“太物渡世”として商売を営む親族の存在が示されています。また、江戸時代から終戦頃まで、東京の御徒町に販売所兼旅館を持ち、上州の人たちが商売で上京した時などに利用されました。
昭和30年代に入ると、「食品のデパート」と看板を掲げ小売業にも熱心に取り組みました。その後、食品の卸売や、埼玉・栃木・長野など周辺地域を含んだ県内のスーパー等40店舗にテナントを出店するなど多店舗化も進めました。
糀屋の蔵には、6尺樽という六トンもの味噌ができる樽が10樽あり、6カ月で一回転し、1年で20樽・120トンの味噌を製造しました。明治初頭の高崎の人口は約1万人。一人が年間8〜10キログラム消費すると考えると、単純に高崎の人口が食する味噌を一軒で賄える量といえます。
6尺樽は、以前は木の樽でしたが、樽を締める箍(竹製の輪)を作る職人がいなくなり、今では繊維強化プラスチック(FRP)製に代わりました。
糀室に息づく糀菌の世代交代はほぼ7日周期で、80年もするとその原形は失われるといいます。それに伴い糀屋では蔵の建て替えが行われてきました。「祖父の代で建て替えたので、次は20年後です」と話す藤平さんの言葉には、時に対する大らかな視点と計画性があります。
蔵は周辺に火災が発生した時、戸や壁などに味噌を塗り込み火災を防いだことから、寺の重要な文書なども保管されたといいます。
糀屋には330年前に造られたと伝わる「火伏稲荷」と呼ばれる祠があります。高さ145センチ、幅75センチ、奥行き89センチの祠は、全体に見事な彫刻が施され、江戸中期建造の蔵の解体に伴い、現在の事務所に安置されるようになりました。伝わるところによると、当主が宮大工を出雲に派遣し、本物の社を造るのと同等の技術を学ばせるなどして半世紀をかけて仕上げたというもの。精緻な技術、精巧な出来栄えに、職人の確かな腕と気迫が感じられます。祠は200年前に一度組み直しが行われ、平成元年にも修繕されました。藤平さんは「宮大工さんと60年先の約束をしています。もう孫の時代ですね」と言います。
群馬県内でも有数の老舗ですが、古い歴史をアピールするより、「目立つな、一番になるな」「家族が同じ商売をするな」「商売を絶やすな」という家訓を守りながら、今まで続いてきた糀屋の歴史以上に長い未来を築きたいというのが22代目藤平さんの考えです。
味噌の製造工程でできる上澄みのたまりを主原料とする調味液に野菜を漬け込むたまり漬けの製造や、手作りみそ教室の開催等で食育”活動に取り組むなど、時代に柔軟に対応しながら、未来への布石としています。